モノがない不幸、モノもつ不幸。

「あああ、あれがあったら自分の生活かわるかもなあ」
モノがない不幸。
若い人たちには多いかもしれませんね。

よくわかります。
だって、女の子(男の子)にはモテたいし、いろんな自己表現をしたいし、実際、若いうちはモノの絶対量が少ないことが多い。
RCサクセションの「寝床の中で」という曲に
「出かけていくにも服がない」
という一節がありますが、当時、ものすごく共感しました。

いっぽうで。
モノをもつ不幸というのもあります。
自分自身、とくべつにモノ持ちではないとおもいます。
お気に入りをながーく使うほうです。
それでも、同じ役割の持ち物を複数持ちすぎる。

どういう経緯で同じ「役割」のものをたくさん持ってしまうかというと…

たとえば、長袖のシャツ。
お気に入りのシャツは、ヘビーローテーション。
若い頃に、そういった状況で幾枚もの「お気に入り」をヘタラせ、お釈迦にしてきました。

その轍を踏んで、同じものがヘビーローテーションにならないように、お気に入り予備軍を購入するようになったワケです。
ホントは、同じものを複数買えばいいのですが、「これはいい!」とお気に入りになるまで、実際に使い込まないとわからないところが難点。
ようやくお気に入りになった頃は、そのお気に入りと同じものはすでに廃盤になっていて、別の候補の中から探すのですが、これが必ず「当たる」とは限らない。
そうすると、使わないものが増えてしまうのですね。
こうしたモノはまさにデッドストック。
生かしようも殺しようもありません。

インドには「服がだめになったときには雑巾にし、そのあとは破いて土とこねて壁にする」という規範があったようですが、そのことに照らすと自分が情けなくなります。

これから先、モノを大量消費することによる経済発展は、少なくとも日本ではありえないと私は思います。

本当に使い勝手がよくって高品質でスタンダードな商品が、新しい需要を喚起するのではないでしょうか?
え、それでは一時的な需要増で終わってしまうって?
いえいえ。
スタンダードなモノの十分な普及は、必ずスタンダードでないモノへの欲求を喚起するはず。
だって、ひとはみんな自分がオンリーワンでいたいのですから。

使い捨てでなく、長く使えるホンモノ品質でありながら「オンリーワン気分」を満たす商品は、いまの自分にとってこれから魅力ある商品です。

野外塾の活動も「使い捨て」にはしていただきたくありません。
体験は形としては残りませんが、上質な思い出、そしてほんとうに身につく知識や技術を獲得できるような活動にこだわっていきたいと考えています。

RCサクセション "寝床の中で"